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中村吉右衛門(1)
- 2012/09/30(Sun) -
 私が初めて吉右衛門さんに接したのは、彼が「萬之助」を名乗っていた頃、稲垣浩作品「野盗風の中を走る」の時であった。

このときの吉右衛門さんは舞台があったため、一本の作品で一週間ほどしか出演時間がなかった。
ほとんど全てのシーンに出ているのに撮影時間が足りなかったため、稲垣さんは得意の「吹き替え」を使って、撮ったのであった。

 稲垣作品100本目の「がらくた」は地方ロケの多い作品であったが、兄市川染五郎(現松本幸四郎)と共演であったのに弟萬之助(吉右衛門)さんは数日しか出演日がなかった。

そこで、稲垣さん得意のピックアップ(吹き替え)で乗り切った。決して東宝の他の監督はしていなかった吹き替えを多用しての演出法であった。

 そんな苦労した俳優であったが、不思議とスタッフは親しんで撮影に臨んだ。

 特に「がらくた」の時は、兄染五郎(現松本幸四郎)と決闘するシーンがあった。

このシーン、若い頃に背格好のよく似ていた兄染五郎が萬之助(現吉右衛門)にもなり、一人で二人のシーンを撮るのであった。
 そして、その時には、兄染五郎側は、夏木洋介が演じたのであった。
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萬屋錦之介の鬼平(5)
- 2012/08/18(Sat) -
「浅草・御廓河岸」は鬼平第一作であり、その記念すべき主人公「海老坂の与兵衞」は中村又五郎さんが演じた。

池波さんの「剣客商売」の秋山小兵衞のモデルというこの「海老坂の与兵衞」は、池波さんの鬼平の世界に住みつき、見事に一人の老盗を演じ切った。よい助っ人ぶりであった。

佐山俊二もまた、「五丁目の勘兵衛」の中で見事「勘兵衛」を演じた。

病人役の佐山さんは、廊下をじりじりを這い出して、庭にずり落ちて死んで行く。

それは、浅草演劇出身の佐山さんの、映画スター出身で歌舞伎の大物、錦之介と四ツに組んで、盗賊らしい鬼気迫る演技だった。

佐山さんもまた、私の心に残る役者の一人であった。
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萬屋錦之介の鬼平(4)
- 2012/08/11(Sat) -
由利徹が老年のスリ役を演じた。
この人の芝居もまた、軽やか、コミックで、味のあるものであった。

そのスリ修行のシーン

大きなどんぶり鉢に、砂が山のように盛ってある。由利の演ずる長助が人差し指を突っ込み砂の中から小判一枚をつまみ出す。砂が崩れると親分がピシリと物差しで小手を打ち据える。

どんぶりの砂の中から長助の三本の指が見事に砂を崩さず、財布をつまみ出す。(松浦健郎シナリオより)

小道具係が必死に作り上げた接着剤で固めた砂の一部に穴をあけ、キャメラから見えぬようにして、由利さんは見事に砂の山から小判、財布をつまみ出すように見せてくれた。

 結局この取り立て屋の由利さんの老スリは、金貸しと争いになり、本部氏の相手に斬り伏せられそうになったとき、平蔵に救われるのであった。

 老スリが己の生命を賭けて守ったのは娘の愛であった。そして死んで行く老スリの死を見つめる平蔵。
 平蔵は幸薄い一人の老スリにふと心引かれるのであった。

 スリの修行の方法、娘を思う父の心は見事で、私の好きな小品となった。
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萬屋錦之介の鬼平(3)
- 2012/07/16(Mon) -
そして、その錦之介編にも、数々の名脇役が登場した。その一人も今は居ない名優である。

 「大川の隠居」には、老盗としての友五郎役を有島一郎が演じ、「鬼平」役宅に忍び込んで、平蔵の愛用の煙管(キセル)を盗み出すのであった。

 実は、この小道具に使う煙管(キセル)を決めるのに大変苦労した。

 そんなとき私がふと目に止めたのは、散策の途中、鶴岡八幡宮の表参道の小道具屋にあったモノであった。 
 
 それは、約百万円の値のついた立派な銀煙管であった。

 小道具係は、自分の自動車の運転免許証をカタに、それを借りてきてくれた。

 その高価な借り物の煙管は、見事な彫刻の彫りのある一品であったが、撮影後にできあがったラッシュ(編集前の撮影映像)を見ると、細部まではよくわからず、残念ながらそれほど上等な品には見えなかった。

 然し、有島一郎は、錦之介の平蔵と対等に、立派にの老盗を演じ、長年の役者としての生活の「艶(つや)」を見せて、とても良い作品となった。
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萬屋錦之介の鬼平(2)
- 2012/07/08(Sun) -
 そして、今ひとつ錦之介の姿勢として感じられる話に「暗剣白梅香」のシーンがある。

 「暗剣白梅香」では、平蔵を切るために殺し屋が平蔵の休む部屋の階段を上ろうとするとき、実は殺し屋の仇(かたき)であるその店の主人から刺し殺されるのであった。

 テレビドラマの演出では、平蔵と殺し屋が斬り結ぶシーンで、平蔵が刀に手を伸ばすが刀掛けの刀が取れない。この時とばかりに殺し屋が必殺の打ち込みをしょうとした時、殺し屋はいきなり障子の陰から仇討ちの相手によって刺し殺される…というものであった。(斬り結ぶ:互いに刀を交えて斬り合うという意)

 錦之介平蔵は、

 「平蔵は『このドラマの主役だから、この料亭の主(あるじ)が元武士で、きっと殺し屋がこんな結果になることも或る程度憶測した芝居』をしたい」と云った。 

 残念ながら、錦之介平蔵は、池波さんの描く『偶然の織りなす一人の男の悲劇』を全く判っていない様であった。

 池波さんは、この一篇のラストに、駆けつけた平蔵の親友である岸井左馬之助と酒をくみ交わす場面を描いた。
 そのとき、料亭の主人の用意した料理は『白魚と豆腐の小鍋立て』であった。

 その小鍋立ての中の白魚をしみじみ眺めながら、平蔵はふと呟く

 「春のにおいが湯気に立ち上(のぼ)っているなァ、左馬。」

 「うむ、うむ」

 江戸の春、平蔵の前をスーッと通り過ぎた白魚の香りの様に、果敢(はか)ない殺し屋金子半四郎の心の内を思いやる長谷川平蔵であった。

 私は、この錦之介の演じる長谷川平蔵と20数本つきあうのであった。
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萬屋錦之介の鬼平(1)
- 2012/07/01(Sun) -
 三代目鬼平は、27本が国際放映、26本が読売ランド、松竹大船撮影所を基点として79本と、合計132本の作品が作られた。

プロジューサー市川久夫氏の歴史読本に書いた「鬼平が出来るまで」という文書によると、原作者の池波正太郎氏に相談すると
「…まあ、萬屋なら歌舞伎のことも知っているから大丈夫だろう」と決まったという。

 萬屋の演出が決まったとき、錦之介側からの注文は、「夜の撮影はやめて欲しい」という、驚く内容であった。

 『鬼平犯科帳』と云えば、夜動く泥棒と向き合う「盗賊改め」の生き様を描くストーリーである。
 にもかかわらず、午後三時以降の撮影には応じられないと云う。

 私はいろいろ考えて、夜の撮影は全て「吹き替え」の平蔵で取り、萬屋平蔵のアップはセットで撮って、中村プロの少々傲慢な注文に応じた。

 これは、中村プロの内情、諸処の資産繰りの為の時間が必要であったのかもしれない。

 中村プロのプロジューサー助手から「ドラマ造りのプロなら、そのくらいのテクニックを持っている筈」と決めつけられると、
 逆に「良し、やってやろう!!」と云う気持ちが私の心にムクムクと湧くのであった。
 
 キャメラのレンズの前に濃いフィルターを掛けて、『ツブシ』と称して昼の撮影を夜に風景としてしまう「疑似夜景」という手法を多用した。

 直射日光の当たらぬ林の中とか、暗い場所を探して撮影をした。その一つだが、「暗剣白梅香」の殺し屋と平蔵の対決シーンは、狛江の八幡神社の木陰での撮影があった。

 その当時、撮影所に生きてスターとなった錦之介の心に、ふと、テレビドラマに対する姿勢を感じて、私は一つの屈辱感を思うのであった。

 更に錦之介の注文として、脚本を直すときにまず、主役のOKを取ってくれとの言葉に、「東宝育ち」の私は驚いた。撮影の主体はあくまで監督であり、これは信じられない言葉だった。

 この萬屋錦之介の「鬼平」を二十数本取るとは、一つな不思議なインネンを感ずるのであった。
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丹波鬼平(4) ~ロケ撮影のこと~
- 2012/06/03(Sun) -
 この丹波編を取った昭和五十年(1975年)頃は、当時時代劇でよく使われていた神奈川の柿生(かきお)付近の農道も、ほとんど舗装され、馬の走りなどにも使えなくなっていた。厚木や柿生の山の中まで行ってやっと時代劇が撮れるという状況だった。

 我々は、世田谷の国際放映撮影所を拠点としていたので、そこから東名高速を走って厚木まで行き、更に一時間ほど山に入らねば時代劇のロケ地は見つからなかった。

 「盗人仁義」では、大山の辺りやダムの底に沈んでしまった宮ヶ瀬の辺りにロケをした。白々とした広い河原で若い男と斬り結ぶ『大滝の五郎蔵』のシーンは、今となっては全て水の底である。

 そして、生田(いくた)にあった“江戸の街”オープン(セット)は今やサッカーの練習場になって姿を消した。

 同じ「盗人仁義」では、三国峠の山あいの深い谷間、中央高速を二時間走って、山道を更に三十分、そんな場所に盗っ人たちの集まる“湯小屋”を建てた。

 丹波鬼平は、このロケ先の“湯小屋”を見て、

 「まさに原作通り、良くぞこんな場所を見つけたものだ」

 と絶賛してくれた。

 「流星」の時に使用した柿生街道も、今や馬は走れない。丹波鬼平と本郷功次郎の『酒井祐助』が疾走する勇姿も昔の夢である。

 大体、東京近辺に馬が居なくなった。
 黒澤明の作品で五百頭集められたのに、昭和40年(1965年)の稲垣浩作品「暴れ豪右衛門」では50頭。
同じく稲垣作品『風林火山』では、東北の野間追いの馬を使用した。
しかし、その馬は今度の東北地方の地震によって、またまた馬の数は減り、時代劇も段々むつかしくなるだろう。 
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丹波鬼平(3)
- 2012/05/20(Sun) -
 丹波さんは鬼平役を一度やりながら、吉右衛門編の鬼平で盗賊の役を演じた唯一人の人であった。

 その撮影の折、私が丹波さんと助監督Sとの対立の話をすると、

 「それは、俺が悪い」

 と明確に言われた。

 丹波さんはそんな人柄だった。

 丹波編では、彼が東映の映画が多かったせいか、私としては珍しいが、多くの東映系の俳優が出演した。

 「盗賊婚礼」の天津敏(あまつ びん)は仲間に裏切られる盗っ人の頭(かしら)を演じ、『大滝の五郎蔵』の役は内田良平が演じた。

 二人とも東映映画の悪役であり、大人の憎しみを現してくれた。

 又、東宝作品には、決して出演しない山本麟一(やまもとりんいち)も、「網走番外地」「仁義なき戦い」などで見せた骨太な男を演じていたが、当時住んでいた北海道から鬼平の為に馳けつけて、人間くさい芝居で応じてくれた。 

 長老香川良介さんもそんな一人である。
 丹波さんの人柄に対して、泥棒の頭(かしら)の役を堂々と演じてくれた。
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丹波鬼平(2)
- 2012/05/15(Tue) -
 映画撮影では、アップを撮るとき、キャメラの脇に、相手役などの目標として「メセン(目線)」と云って助監督が手を出して、それを見つめさせる。

 前回の、助監督の騒ぎのあと、丁度助監督Sがその「メセン」を務めた。

 そのSと見ると、丹波は

 「邪魔だ、どけ!!おまえが居ては芝居が出来ない、どけ!!」

 助監督Sは一歩も下がらず

 「どきません。これが私の仕事です!!」と怒鳴りかえした。

 無邪気なイタズラ小僧同士の様なやりとりに、一瞬セットは笑いが漏れた。

 助監督は、怒りに燃えた丹波鬼平に対して、全スタッフの意志を代表する様に一歩も引かなかった。

 然し丹波は思いがけない方法でこの事件を解決した。それは、後日、丹波が東映のテレビ「Gメン'75」に蹴れと対決した助監督Sをチーフ助監督として呼んだのである。

 これが丹波流の謝罪の方法であり、彼のメンツを立てる解決方法であった。

 それまで東映系の俳優さんが、出演することは珍しかったが、丹波鬼平で数多く出演したことは、ひとえに丹波の人柄が思わぬ効果を上げたのかもしれない。 
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丹波鬼平(1)
- 2012/05/13(Sun) -
 白鸚は常に歌舞伎座の舞台出演を持っており、テレビドラマ出演との両立は年齢的に無理だった。
結果、九十一本で終わった。

 「鬼平」のプロデューサ市川久夫さんに、NET(現テレビ朝日)より「鬼平犯科帳」再開の話が出て、丹波哲郎なら、声も良し、貫禄もあるから「丹波でどうか?」との話があった。

 丹波からの要望は、「朝が弱いから開始時間を一時間遅らせて10時からにしてくれ」と云うことであった。

 然し、一時間遅らせたのに丹波が撮影所に到着するのは大抵10時半を過ぎていた。

 時代劇はそれからヅラ(かつら)を付け、メイクをし、着物を着る。
できあがるのは11時に近かった。

 忠吾役の古今亭志ん朝さんは、昼席の寄席などが有ると、その苛立ちぶりは大変なものだった。

 連日の遅刻に業をにやした助監督のSが或る日、突如として

 「もう許せない、貴方の態度はなんだ、みんなに謝れ!!」

 と絶叫した。


 冗談と思って聞きながしていた丹波を相手が真剣に「謝れ!!」と連呼するので、怒りが噴き出したらしく・・・

、いきなり腰の脇差しを引っこ抜き、助監督をセット中追い回した。

 助監督は後ずさりしながら
 
  「許さない!」「許さない!」

 と連呼しながら逃げる。

 丹波さんは

 「おまえなんかクビだ!!」

と云って、その場の騒ぎは収まった。
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鬼平(18) ~先代松本幸四郎(松本白鸚)のこと
- 2012/05/01(Tue) -
初代鬼平の先代松本幸四郎(松本白鸚)は誠実に台詞を覚え、舞台とテレビを掛け持ちであったが、ただの一度も遅刻せず勤め上げ、白黒(モノクロ)版35本の後、カラー版が続き、総数91本が制作された。

 撮影側もその白鸚の誠実さに応えて、永い間の習慣であったセットの9時、ロケ8時出発という開始時間を守り、冬にはさらに一時間早くして撮影した。

 その後、白鸚編の全ての撮影が終了し、打ち上げの日、ご自宅のマンションに我々監督とスタッフが招かれた。

机の上には、高級スコッチ、ブランデーが並び、その中にサントリーが並んでいた。
酒を嗜(たしな)まぬ白鸚らしくほほえましかった。

 そして、以前に書いたように、白鸚は、奥様と二人、スタッフに両手をつき、深々と頭を下げられ、

 「女房と二人して初めてハワイに言って参りました、(当時外国旅行はなかなか難しかった頃である)
 この「鬼平」あればこそ、こうして二人ハワイに参れました。全て皆様のお陰。」

と再度深く頭を下げるのであった。

 その姿から池波さんのおっしゃる『長谷川平蔵らしい人柄』があふれ出していたと、心の底から感じられた。

 こうして、松本白鸚は、東京時代劇の新しい主人公を見事に演じ切ったのであった。
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鬼平(17) ~密偵伊佐次のこと
- 2012/04/29(Sun) -
 前回書いた様に、『伊佐次』は池波さんの親友シナリオライター井手雅人さんのシナリオ作りの結果生まれた一人であった。

 この密偵を市川プロデューサーは、伊佐次を命名して井手さんの「老盗の夢」で簑火(みのび)の喜之助にからむ元盗っ人で現役の火盗改めの密偵として活躍する。

 白鸚編では、三船敏郎と同じ東宝第一期のニューフェイス堺左千夫が演じ、丹波編では久野四郎、萬屋編では堺左千夫が、吉右衛門編では三浦浩一が演じた。

 この役は珍しく、テレビドラマが造り出したキャラクターであった。

 更にその伊佐治を愛する池波志乃演ずる岡場所の女『およね』が出現し、男と女の機微を語る良い原作に発展していく。

 ライターの意志が彦十殺しという事件を生み、それが逆に池波さんを刺激し、新しい小説のストーリーを生みだし、テレビドラマ「鬼平」を三十数年続かせた大きなポイントと成っているのである。

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鬼平(16) ~相模の彦十の咄
- 2012/04/21(Sat) -
鬼平(16) 相模の彦十の咄(はなし)

 鬼兵での初代の『相模の彦十』は申告劇の河村憲一郎であり、丹波編の彦十は岡田映一、萬屋編では、植木等、後半は西村晃が演じ、吉右衛門編では江戸家猫八さんがコミカルで人の良い彦十を講演した。

 初代の河村さんは新国劇の人。池波さんは新国劇の座付きの作者であり、昭和26年(1951年)、此の劇団での最初の戯曲「鈝牛(のろうし)」に河村は下宿人というチョイ役で出ている。昭和27年(1952年)、「檻の中(おりのなか)」でほんの小さな役で、そして昭和31年(1951年)「名寄岩」で主役の島田正吾の病気を診る医者を演じている。

 そして私の撮った「本所、櫻屋敷」(井手雅人シナリオ)で、話の組み立てでこの彦十を殺してしまった。
 長谷川平蔵の大きな怒りを描くことにおいて、井手さんの作劇には必要なことであった。

 しかし、原作上重要な彦十が死んでは、他のライター諸氏は大変困って、密偵Aとして一人の人物を作り上げた。

 そしてプロデューサの市川さんは、密偵Aに伊佐次と名付けた。

 間もなく池波さんの原作に、伊佐治が登場し、四人の平蔵とともに活躍した。

 池波さんと親友だったシナリオ井手さんとプロデューサ市川さんが造り出した珍しい登場人物であった。
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鬼平(15)~長谷川平蔵の時代
- 2012/04/09(Mon) -
 平蔵の登場した昭和42年(1967年)テレビは若かった。そして若者たちの世界だった。

  テレビ時代劇はNHKの大河ドラマ「天と地と」、二十歳のころに吉右衛門が主演をした「ながい坂」、
 劇画原作の「無用之助」、東野英治郎の「水戸黄門」などが始まった。
 
 大人もまた時代劇でテレビと向き合っていた。

 昭和45年(1970年)、東映は長くこの会社のカラーとしていた時代劇の制作をやめ、
鶴田浩二、高倉健、藤純子(現富司純子)などにより任侠路線に切り替えていく。

 アメリカの宇宙船が月に到着し、安田講堂に火炎ビン、ガス弾が飛び交い、政治の現実がテレビを通じて
茶の間に飛び込む時代、
「鬼平犯科帳」は体制側の一つのカラーとして、『強く、正しく。そして心優しい』人物として、
日本人の心の中に生き始めたのが「鬼」と云われた長谷川平蔵であったのである。

 挑む『悪』は、理不尽に生きながらも「貧しきからは盗まず、女を犯さず、人は殺さぬ」などという勝手なルールを持った盗っ人たちであった。

 平蔵は、そんな屁理屈(へりくつ)を語る盗っ人たちを容赦なく引っ捕らえる一方で、悪の世界に住む人たちの心をじっと見つめてやる優しい心を持つ男であった。

 初めてのテレビドラマに主演する白鸚は、緊張と、創造する熱い思いで必死に演じ切った。

 一度も遅刻することなく、舞台とテレビ撮影という過酷なスケジュールを守りきった。
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鬼平(14) ~「むかしの女」おろく について
- 2012/04/06(Fri) -
 「むかしの女」に登場する『おろく』は、長谷川平蔵の昔の女として描かれている。
 俗に言う「ひも」であった。

 「躰でかせぐ女の金を奪い、飲み食いし、配下の無頼どもに分けあたえるくせに、『おろく』が他の男に抱かれることにすさまじいばかりの嫉妬(ねたみ)をもやし…」と鬼平犯科帳(一)にある

 最初の配役である新劇の女優さんは一度出演をOKしておきながら突然断ってしまった。私は今更のように白鸚と云う役者の大きさを想った。

 その後『おろく』役に決まったのは沢村貞子(お貞さん:おていさん)であった。
 お貞さんは、下町育ち、そして父は河竹黙阿弥の弟子で浅草宮戸座の作者であり、兄は俳優沢村国太郎、
その子は長門裕之と津川雅彦であり、弟は加東大介という芸能一家の人である。

 「私は映画界を生き抜いた女優。歌舞伎役者ならいい勝負」

 と、女優の意地を画面いっぱいにたたきつけての演技であった。

 そんな『おろく』を長谷川平蔵は深く愛していた。己の青春のかたみとして『おろく』を…。

 その『おろく』が雷神党の井原惣市に惨殺される。

 『おろく』の死を知った平蔵は必死の剣を振って悪党どもにぶつかっていく。

 夢中に生きる一人の女、己の青春を知り尽くした女の為に悪にぶつかっていく長谷川平蔵の生きざま。

 私は平蔵の心根の奥に生きる優しさを、しみじみと感じるのである。

 長谷川平蔵はよい男である…。
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鬼平(13) ~「鬼平の」筆頭同心酒井裕助のこと
- 2012/04/01(Sun) -
四人の長谷川平蔵の下で筆頭同心である酒井裕助(さかいゆうすけ)を演じたのは、
 
 白鸚の時の竜崎勝、
 丹波時代の本郷功次郎、
 萬屋の折りの峰崎徹、目黒祐樹、
 吉右衛門時代の篠田三郎、柴俊夫、勝野洋

の七人である。いずれも好漢であった。

その中で初めて時代劇に挑戦した竜崎勝の如何にも無骨で純情そうな、それでいて一本気な演技に私は好感が持てた。

必死に、慣れない殺陣(たて)に取り組み、長官(おかしら)先代幸四郎(白鸚)の芝居に少しでも食い込もうとする熱気が感じられた。

 初期の頃で原作が足りず、池波さんの嫌っていた原作にない『オリジナルの脚本』と思える「八丁堀の女」(柴英三郎脚本)で町奉行の与力の娘柏木由紀子(まだ坂本九と出逢う前)との幼い初恋の純情さはひたむきだった。

 原作の少なさを補う意味で池波さんから提供された「にっぽん怪盗伝」「殺しの掟」「江戸の暗黒街」なおどの
池波短編集から、自由に鬼平に利用してシナリオは制作された。

 池波さんの気持ちは
 
 「俺の書いてもいねえストーリーを、原作者だからってギャラもらう程俺は落ちぶれちゃいねぇ!!」

こんな啖呵が聴こえる程、池波さんは「鬼平」の原作を大切に思っていたのである。




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鬼平(12) 木村忠吾のこと
- 2012/03/25(Sun) -
白鸚編の木村忠吾役の古今亭志ん朝は「うさ忠(うさちゅう)」と呼ばれ、その飄逸(ひょういつ)さ、
女好みの点、それでいて憎めない明るい性格はテレビドラマを見て取り込んだように、
作る側の私は考えた。

 撮影現場の志ん朝さんは、若手の落語家として江戸下町をよく知る人情深い江戸っ子を演じ、
我々が台詞に出てくる町名をマチと呼ぶがチョウというのかわからなかったそんな時、
落語の知識で即座に教えてくれた。
噺家なら当然という驕らぬ(おごらぬ)姿勢がスタッフに良い印象を与え、常に番組の中心で
朗らかに作品の中心であった。

 「カミさんと一緒になるって金がなくて苦しい最中に載ったのがテレビ映画『鬼平犯科帳』
の仕事でした。『うさ忠』こと木村忠吾の役です。
それから私の運も上向いて来ました」と、オール読物「鬼平犯科著の世界」で語っている。

・・・(そして)志ん朝さんは出生したわが子に『忠吾』と名づけ、可愛がっていたという。

 筆頭同心酒井の忠吾評、井手雅人脚本『谷中いろは茶屋』の中で、

 「あいつ、芝・神明(しばしんめい)前の名物『うさぎ饅頭』にそっくり・・・、
  顔つきだけではない、甘さも程々、塩味も程々、いくつ食べても頭につまらず、
  何より一個一文で安い・・・毒にも薬にもならん、娑婆塞げ※(しゃばふさげ)ということだ・・」

 とある。

何時も現場でニコニコして、それが忠吾の個性のような屈託のない芝居をしておられた

 志ん朝さんは十九歳で噺家になって四十四年、若い時から好きであった白鸚と共演する忠吾役で、
気っ風(きっぷ)の良い、そして少々オッチョコチョイの木村忠吾役を演じていた。

 志ん朝さんは『うさ忠』を愛し、『鬼平』の世界にどっぷり浸って江戸っ子らしく、そして
軽やかに生きていた。

 まさに木村忠吾は志ん朝そのままの人柄であった。

 ※「娑婆塞げ」(しゃばふさげ):生きているというだけで、なんの役にも立たないこと。
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鬼平(11) ~鬼平原作者池波さんと,プロデューサー市川さんのこと
- 2012/03/15(Thu) -
 昭和35年(1960年)、池波さんは「錯乱」によって直木賞を受賞、平蔵を主役の小説に仕立てようとするが、
「…すぐに書かなかったのは、僕の文体が硬かったからです。
その時の硬い文体では、江戸時代の世話物は書けないと思った」(池波正太郎の春夏秋冬より)
と言っている。

 その後、七年の時間を経た昭和42年(1967年)、「オール読物」12月号に「鬼平犯科帳」として花開く。

 私の初めてのテレビ時代劇作品である、 鬼平「血頭(ちがしら)の丹兵衛」がスタートしたのは
五年後の昭和40年(1965年)の10月であった。

 そして、それ以来三十数年、私と鬼平の長いお付き合いが始まるのであった。

 その三十数年という間、変わらなかったことがある。
テレビ番組としての鬼平の台本は同じ内容のものが使われ続けたのである。
そこには、プロデューサー市川久夫さんの拘り(こだわり))があった。

 市川さんは、白鷗、丹波、萬屋、吉右衛門の四人の平蔵を通して、
「最初に作った自信をもった台本」を、時代を超え、主役が変わっても使い続けるという
依怙地(いこじ)を通し、それをやり抜いた。

 平成2年(1990年)病床にあった池波さんは、見舞った市川さんの手をしっかり握り、
「『鬼平犯科帳』を始めとする全池波作品のテレビ映画化は全てお前さんに任せる」と後事を託したと云う。

その池波さんも市川さんも、今はもうこの世にはいない。
「鬼平」は生き続けても、原作者、プロジューサはすでに無い。

 お二人のご冥福を祈りたい。
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鬼平(10) ~私の第一作「血頭の丹兵衛」と「暗剣白梅香」のことなど
- 2012/03/11(Sun) -
「鬼平犯科帳」の演出が決まった日、
私は日比谷にあった東宝本社に台本を受け取りに行った。
テレビ部に入った途端、市川さんの
 
 「断る!! 文句があるならすぐ来い」

との怒声が聞こえてきた。
私は「台本を貰う」とは言い出せなかった。
やがてテレビ局の人と思える二人が駆けつけ、応接室に入ってしまった。
しばらくしてサブプロデューサーの香取さんが出てきて

 「局側は平蔵の親友、岸井左馬之助役に宝田明で」という。

さらに数分して市川さんと局側の人たちが、にこやかに出てきて帰っていった。
唖然とする私に市川さんは、

「左馬之助役は加東大介さんに決まったよ」とおっしゃり、

さらに

「加東さんは稲垣組に度々出ておられるから、明日、口説きに行くテレビ部の人と君も一緒して話してくれ」
とのこと。

 早速、私も大阪の舞台に出ている加東さんの元に赴くのであった。
長い撮影所ぐらしでも俳優の出演交渉は初仕事だった。

そして、大阪の舞台に出ている加東さんを口説き、出演をOKしてもらい、私の最初の鬼平犯科帳はスタートした。

 今でもロケ地、豪徳寺の寺の庭での加東さんの現気に歩かれる姿を忘れられない。
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鬼平(9)~プロジューサーについて ~
- 2012/02/24(Fri) -
 鬼平の台本造りは、元東宝のテレビ部長であり、吉右衛門編までのチーフ・プロデューサー市川久夫さんが一手に引き受けていた。

 大映時代、時代劇の事がよく分からぬ市川は、当時の大映の重役で作家の川口松太郎に相談すると、「それだったら長谷川のオヤジに揉まれてこい」と云われ、長谷川伸に弟子入りする。

 長谷川の勉強会は「新鷹会(しんようかい)」と云い、毎月十六日に戯曲の、二十六日には小説の勉強会が開かれた。

 正面に長谷川伸が座り、その横に作家の土師清二、山手樹一郎、山岡荘八、村上元三、鹿島孝二、棟田博、長谷川幸延、大林清など名だたる十数人が居並び、末席近く新人池波正太郎、戸川幸夫、平岩弓枝などが座り、朗読させた作品について、意見や叱責が飛び交い、まさに火を噴く雰囲気であったという。

 市川さんは、この会に出席し、プロ志向の批評会を固唾を飲んで聴き入ったと云う。この会で知り合った池波さん、市川さん、そして後に黒澤明のシナリオを書く井手雅人もいて、映画好きな三人は会の後、夜を徹して無声映画から戦前、戦後の映画の事などを語り合ったという。

 昭和三十六年から三十七年にかけて、アメリカからテレビ映画「アンタッチャブル」で禁酒法下のシカゴでギャング団のドン、「アル・カポネ」に対決するFBI「エリオット・ネス」の活躍は痛快だった。

 きっと池波さんは、「日本版アンタッチャブル」を「鬼平」に求めていたに違いない。


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鬼平(8)~ 長谷川平蔵の生き方とその時代<後半>
- 2012/02/16(Thu) -
 実在の長谷川平蔵は、放蕩無頼の生活(前回記事に記載)の中から、相模の彦十と云う男との交流が生まれ、酔いしれて泊まり込む「鶴(たずがね)の忠助」の幼い娘の「おまさ」との淡い恋の中から、火付けと続改めの頭(かしら)「鬼の平蔵」に成長していく。

 八代将軍の孫に当たる松平定信が老中になり、「寛政の改革」が始まる。
 銭湯の男女混浴が禁じられ、数々の贅沢禁止令、浮世絵や絵草紙の出版販売禁止、派手な歌舞伎の興行は駄目とした。

 そんな暗い時代、江戸に流入する各国からの無宿人の救済案を求めた。そのとき平蔵が提出した案は隅田川河口にある中州を埋め立て、そこに無宿人を収容する「人足寄場」の建設であった。

 中州を埋め、土を盛る石垣を造る石材不足を理由に反対する物があると、死に絶えた無縁仏の墓石を使用するという奇想の案を出し、無宿人たちに安い日当を払い、江戸の堀割り、水の泥を浚(さら)い、悪臭を消し、その土で人足寄場を築き上げた。

 更にこの事業に金が不足すると相場という手をつかい、幕府の御金蔵(おかねぐら)から小判を借り、暴落していた銅銭を買い占めた。すると一両日のうちに銭相場に一両にあたり五百文の利ざやが出る程に高騰、平蔵はすかさず銭を売り払い儲けたと云う。

 又、平蔵の父宣雄は大変な倹約家であり、理財に長けた人であり、長谷川家の知行地は開墾の余地もあり、実収の多い土地であったと云う。これらの金を利用して造った「人足寄場」という罪人の更正施設の設置は世界最初の試みであった。

 平蔵の世の中を見つめる目の高さが、常に庶民の目の高さとして、大衆の側から悪と向き合う姿であり、それこそ長谷川平蔵が人気の秘密であったに違いない。

 池波さんが生み出した生み出した平蔵は、心温かさ、相手の心をしっかり見つめる優しさを示し、部下の同心、密偵たちと共に、読者とドラマの視聴者の心まで掴んだと思えるのである。
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鬼平(7)~ 長谷川平蔵の生き方とその時代<前編>
- 2012/02/12(Sun) -
 池波正太郎さんが生み出した長谷川平蔵は実在の人物だった。

 平蔵が「火付け盗賊改め」の長官に就任したのは天明7年(1987年)、今から二百二十数年前の九月十九日と、池波さんは書いている。 時に平蔵四十二歳であったという。

 この天明(1781~1789)という時代は、浅間山が大噴火し、全国に凶作が続き、各地に一揆、打ち壊しがあり、街には盗賊がはびこり、農民は流民となり江戸に流れ込み、世の中は乱れに乱れた時代であった。長谷川家は戦国時代から徳川家に仕え、幕府になってからは四百石の旗本として生きた。そして五代目の宣安(のぶやす)の末弟が平蔵の父「宣雄」であった。

 長谷川家は長男が家を継ぎ、次男は他家に養子に出て、末弟宣雄は、終生兄の世話で生きるという状況だった。その頃宣雄は下女のお園を愛し、その腹に宿ったのが「平蔵」、幼名「鉄三郎」である。

 当主「修理」が病を得て、子のない為、妹「波津」を養女にし、平蔵の父宣雄は明の波津と結婚し、長谷川家を継ぐ事になる。叔父と姪の縁組みは不自然ではあるが、当時としては家を護るという意味で致し方がなかった。

 そして、病身の平蔵の母「お園」は、愛する夫が本家に戻る事に落胆し、急激に衰弱し世を去る。義母「波津」は必死に我が子を産もうとするが、ついにかなわず、平蔵を本所の屋敷に迎え入れる。
 
 やがて平蔵と義母の激しい諍い(いさかい)が起こり、平蔵は義母を撲り付け、悪所通いと酒の日々を送り、「本所の銕」と云う異名をもつ無頼として生き抜くのである。

<後編へつづく>
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鬼平(6) ~フィルムについての拘(こだわ)り~
- 2012/02/10(Fri) -
 いつの事だったろうか、「鬼平」の撮影をビデオでとの話が出た。然し長い間フィルムに親しんだ私たちは「ドラマ造りは総てフィルム」…と拘った。

 何年も何年も白黒フィルムに馴染み、、やがてカラーとなって、色を出すために工夫をし、「色温度」という言葉を知り、色を再現するためにライティングも工夫した。

 ライティングを長時間続ける事による着物の退色までも考え、役の人の衣装と同じ色の着物を作り「吹き替え」に着せてライティングをすることもあった。こういった色表現などにも含めて徹底して拘った「絵づくり」をしていた我々にとっては、フィルムに少々異常な愛着を持っていた。


 だから「鬼平」も、「太陽にほえろ!」も、「江戸の旋風」シリーズも、「青春もの」も全てフィルムで撮影した。

 イーストマンカラーのやや青みがかった色彩、アグファからーの黄色がかった色彩を好む監督もいた。

 私の師匠の稲垣さん(稲垣浩監督)は、「宮本武蔵」で、イーストマンフィルムでアカデミー外国賞を獲り、また「無法松の一生」ではベネチア映画祭ではアグファカラーで大賞を受けた。

 また、黒澤明は、長い間白黒フィルムに拘わり、第一作の「姿三四郎」から「一番美しく」「わが青春に悔い無し」、「酔いどれ天使」「野良犬」「静かなる決闘」「羅生門」「生きる」「七人の侍」「生きものの記録」「蜘蛛の巣城」「隠し砦の三悪人」「悪いやつこそよく眠る」「用心棒」「椿三十郎」「天国と地獄」「赤ひげ」と、次々と白黒フィルムで撮り、「どれすかでん」で初めてカラーに挑んだ。

 我々フィルムに親しんだ者には、人に云えぬ「フィルムへの愛着」があった。
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鬼平(5) ~更に、初代白鸚について
- 2012/02/07(Tue) -
 白鸚はまじめな人で、台本のセリフは総て覚えており、台本で直した時の対応はむずかしかった。

 どれほど前の人のセリフが変わっても、白鸚はすぐにそれに答えるセリフは出ずに、一度おぼえたセリフで返事するのであった。
 また、四度、五度とテストせぬと完全に芝居の「間」が自分のものにはならなかった。
鶴見の総持寺の五重塔の下で、加東大介扮する岸井左馬之助と語り合うシーンで、羽田から飛び立つ飛行機の騒音で、同時録音が出来ない。「アフレコ(画を撮って後からセリフを入れる作業)で」、と云うと不安な顔の白鸚。

「飛行機を待つと舞台の時間が間に合わぬ」と、私は強行した。

しかし、数日後のアフレコでは、

 「私は、こんなセリフは言っておりません」

と、頑なだった。

 「私はこんな早口では喋りません」

と、おっしゃる。
飛行機の騒音を気にして本番とした私は、納得しなければ芝居せぬこの人に申し訳なく思うのであった。

誠心誠意、芝居に打ち込み、自分の「間」を大切にするこの人の姿勢に感動させられるのであった。

「テレビドラマは初めてゆえ、動きも芝居もすべて監督にお任せします」
という劇界の大御所の言葉に、唯々恐縮する私であった。

この白鸚の姿勢が、白黒版35本の後、第二次のカラー版が1年後にスタートし、総数91本の鬼平が制作されたのも、この人の「人柄ゆえ」であったろうか…。
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鬼平(4) ~鬼平犯科帳 平蔵について~
- 2012/02/05(Sun) -
 吉右衛門さんの鬼平が白鸚に勝る物と云えば「若さ」であるが、原作によれば、若き平蔵が長谷川家に呼ばれたのは十七歳であった。

 義母と激しく対立し、しみじみと「妾腹(めかけばら)」の悲哀を感ずる毎日であり、激しい対立の日々であったと云う。長谷川家のあった本所・深川は辰巳(たつみ)と呼ばれる7箇所の遊び場が深川八幡の回りに拡がり、遊び場所はいくらでもあり、深川芸者は羽織芸者と呼ばれ、粋を尊び、さっぱりと素人っぽく、そんな人情にどっぷりつかった鉄三郎こと若き日の長谷川平蔵は、酸いも甘いも噛み分けた男に育っていった。

 平蔵のことを育て上げたのは本所であり、深川に息づく男と女の、心の底の悲しみと喜びを彼が汲み取り、そして後年の鬼平の悪と対決する強い心になったのであろう。

 「よしの冊子」という古文書に

  「長谷川の役宅は毎日大勢の盗賊がやってくるので、平蔵は大釜で飯を炊いておいて喰わせるという。たいそうに物入りだそうだ」

 とある。

 そして、原作者の池波さんが、平蔵の生きた本所から隅田川を一つ隔てた浅草聖天(しょうてん)町に生まれ、父と別れた母と浅草永住(ながすみ)町の祖父の家に住んで成長した。そんあ生活(くらし)の中から、平蔵の心をしっかりと掴み、描いた。

 吉右衛門さんは、「鬼平」について

  「上に対して強く、下の物には情が深い」

 と語っているが、江戸の街は義母の継子(ままこ)いじめにあう一人の男を暖かく抱き留める大きな力があったのだろう。

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鬼平(3)  ~鬼平犯科帳 原作者「池波正太郎」さんのこと・・・~
- 2012/02/04(Sat) -
 「鬼平」の撮影中、白鸚は一度も遅刻することなくメークをして平蔵に扮してセット前に座ってスタッフを待つのであった。とにかく「律儀」で「真っ正直」に平蔵と向き合っていた。

 この「鬼平」を池波さんが思いついたのは、昭和21年(1946年)、「讀賣文化賞」に「雪晴れ」が4位で受賞。更に昭和22年再度「讀賣文化賞」に「南風の吹く窓」で受賞。そのときの選者の一人長谷川伸の元に弟子入りして、長谷川伸の勉強会「新鷹(しんちょう)会」に参加した。十人程の作家と新人たちが居並び、朗読された作品について意見や叱責が飛び交い火を噴く雰囲気であったという。

 長谷川は、こんな風な厳しさとは別に、貧しくても本を買えぬ新人たちに己の書庫の本を自由に貸し出した。池波さんは、そんな書庫の中に「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)」と云う徳川家の家臣の事を書いた本を発見する。その本に長谷川平蔵の名があった。

 「明和5年、初めて将軍に拝謁(はいえつ)し、(略)、天明7年、盗賊追捕(ついぶ)の役を務め・・・」

と、あるのを心にとめ、平蔵はそれから20年を経た昭和42年(1969年)に「鬼平犯科帳」の長官として蘇るのであった。
 
 また、此の「新鷹会」に出席した人に、鬼平のメイン・シナリオライターで、黒澤明の脚本を書いた井手雅人がおり、また、鬼平のプロデューサー市川久夫も参加しており、三人は無声映画から、戦前、戦後の映画話を夜を徹して語り合ったという。

 こうして「鬼平は生まれ、テレビドラマとして育っていくのであった。」
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『フィルムの時代』  鬼平(2)   ~鬼平犯科帳~
- 2012/02/01(Wed) -
 昭和45年(1970年)、白鸚の鬼平撮影中、初めて舞台「鬼平犯科帳」が上演され、二十七歳の吉右衛門さんは五十九歳の父の平蔵と共演している。榎本滋民の脚色・演出の「本所櫻屋敷」「女掏摸(めんびき)お富」「お雪の乳房」の三編を一つにした物で、吉右衛門さんは木村忠吾を演じ、コミカルな味を出している。

 また、昭和46年(1971年)、明治座で、池波さん演出の「狐火」で吉右衛門さんは“狐火”の子、文吾役を務め、兄染五郎(現幸四郎)は、やはり“狐火”の妾(めかけ)の子又太郎役で共演し、また、テレビドラマ「隠居金七百両」で、父白鸚の平蔵に対し、吉右衛門さんは、その長男辰蔵役で出演している。

そして吉右衛門さんは「オール読物」に、こう語っている。

 ふがいない倅(せがれ)を叱咤激励するシーンで、平蔵の父は、テスト中からスタッフが心配する程、辰蔵の私を竹刀で強かに叩きました。父は「なあに、それ程で参るようでは・・・。」と手を緩めません。 私は、「人の身体だと思ってひどい事を、これは芝居ではないか」と、腹の中では反抗していました。そのうち、父の平蔵のイメージがダブって、背中の痛みを感じながら私も辰蔵役にのめり込んでいきました。」(オール読物「鬼平との出逢い」より)

 吉右衛門さんは平蔵を引き受けたとき、父、平蔵には到底及ばないと思っていたが、父から受けた竹刀の痛みと、原作者池波さんの「次の平蔵は吉右衛門にやらせたい」の言葉が唯一の頼りであった様である。
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『フィルムの時代』 鬼平(1)
- 2012/02/01(Wed) -
 東宝砧撮影所で、稲垣浩、黒澤明、丸山誠治などの助監督を13年つとめ、昭和41年(1966年)「青春とはなんだ」でテレビドラマでスタートして、36年間、「フィルム」にこだわって五百本近い作品を生み出した私が、数々の撮影想い出、俳優のことなどを書いてみようと思う。

 まず、現在“BSフジ”で再放送されている「鬼平犯科帳」から始めよう。

 池波正太郎の原作が「オール読物」に掲載されたのは昭和42(1967)年12月であり、池波さん44歳、作品名は「浅草・御厩河岸(あさくさ・おうまやがし)」であった。それから二十四年間、池波さんは急逝されるまで原作を書き続け、初代・松本白鸚、二代目・丹波哲郎、三代目・萬屋錦之介、四代目・中村吉右衛門という四人の平蔵によって、実に三百数十本と云うテレビドラマが作り出された。

 私は、白鸚編:11本、丹波編:6本、錦之介編:20本、吉右衛門編:44本と、36年間に79本の長谷川平蔵を生み出している。最初の「鬼平」は池波さんの注文で、作者と似ているということで、「白鸚」を指名してきた。撮影の二年間、歌舞伎座の出演とダブっても決して遅刻せぬ白鸚と、〆切りの数日前に必ず原稿を雑誌社に渡したという律儀さの池波さんと似ていたのかも知れない。

 そして打ち上げの日、スタッフをお宅に呼び、そのスタッフの前に白鸚さんは深々と頭を下げ、

 「女房と二人、ハワイに行って参りました。ホテルのロビーで『鬼平』を放映しておりました。この作品有ればこそ、こうしてハワイに来れました。全て皆様のお陰」

と、頭を下げる白鸚平蔵の姿から、池波さんの云う鬼平役としてピッタリの人という言葉が頷かれた。

 しかしその白鸚も、舞台の時間を気にしていた様で「むかしの女」という作品の時、ロケ地で私が「お疲れ」と云うと、フレームを切れた途端、ズラをはずし、衣装を走りながら脱ぎ捨て、自動車に飛び乗って、歌舞伎座に向かうのであった。

 
 昭和44年、テレビは若かった。
 
 小川ローザの「オー、モ-レツ!」のガソリンのCMが画面に流れ、NHKの大河ドラマが「天と地と」、東野栄治郎の「水戸黄門」が始まり、時代劇は映画からテレビへと移っていった。

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